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1995年阪神淡路大震災の直後の1月20日、行方不明の友達を探しに神戸に駆け付けました。

「ありがとう、これをあの子にかけてやれるわ」娘を亡くした友だちのお母さんは、担いでいった毛布を喜んでくれました。避難所の玄関は安否の問い合わせであふれかえり、まず怪我や持病の有無をリストアップした名簿作りからはじめました。

毎日余震は続きました。いつ本震がきてもおかしくない状態。でも「あんたたちボランティアさんがおるなら大丈夫!」と、避難所に居続けることで生れた不思議な信頼感と一体感を胸に、開いている病院や付近のお店マップ作り。外部への被災地情報の発信。炊き出しや子どもたちと外遊び、凍った身体を温める足湯マッサージ…と思いつくことは何でもやってみました。

​一週間後、仲良くなった方々と一度交流会でもしましょうか、と付近の酒屋を回ってビールを買い集め、避難所の屋上でささやかな宴を催しました。歌本を用意して、廊下の隅に転がっていたギターでオリジナル「あたたかな風」を歌い始めたら、おばあちゃんたち涙がこぼれ、おっちゃんは演歌の伴奏してくれと歌い始め、凍りついた心が解け泣き笑いが起こる瞬間に出くわし、音楽やっててよかったなーと思いました。
それからは物資の行き届かない公園や避難所にあたたかい食べ物と音楽を届けようと、避難所で余った弁当とギターを背負い、灘区から中央区、兵庫区、長田区まで自転車で回りました。

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半年後、ぎっくり腰になって実家に戻って療養するも、被災地での活動の充実感が忘れられず、復興を最後まで見届けたい、と神戸に戻り、お手伝いしていた全壊した小規模作業所の一室に寝泊まりさせて頂き、そこのメンバーと仮設住宅移動八百屋を始めました。

数年後には自分で作った無農薬の米・野菜や卵も並べるようになり、おいしいものを食べて元気を出してもらえたら!とそれから8年間続けました。
毎週末には仮設住宅や公園で復興支援のイベントを企画。そこで知り合った盲目の老婆から三味線を教わったり、若いお兄ちゃんたちにギターを教えたり、音楽ならではの交流もありました。

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​育てじゃがいも!

全壊した障がい者小規模作業所「まつぼっくり」で知り合った筋ジストロフィーの富田君と畑を始める

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2000年、西宮青年生活学級に音遊びの講師として招かれ、そこで知り合ったメンバーのノリの良さに一目惚れして結成した「すずむしばんど」は現在も各地のイベントに出演しています。

みんなで作った「すずむしバンドのテーマ」の歌詞より

地震に負けずにぼくら生きています♪

自信を持ってぼくら生きています♪

泣いてるあの子に笑顔がもどるように♪

みんなおいでよバンドをやろうぜ♪

こんなぼくにも歌が歌えるんだ♪

ぼく自身も子どものころ言葉がうまくしゃべれない子だったので、歌によって世界が開けた経験を感謝しつつ、みんなにも伝えたいなと思っています。

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神戸に来る前は、東京の手づくりパン屋と自然食レストランで働いていました。

 

「パンの店結」は障がい者と共に働く手作りパン屋で、無添加・国産小麦・四つ葉バターなど材料にもこだわりを持っていました。時給もみんな一律250円!ま、泊まるところとパン食い放題だったので、いいかと。毎日お昼に焼き立てパンを区役所や保健所前の公園に移動販売を続けることで、そのうち500円まで上げることができました。

 

自然食レストラン「みさとや」では、無農薬有機栽培の野菜を使った料理を作り、調理師免許も取得させてもらいました。

 

仕事が終わるとギターをかついで新宿や渋谷の路上で歌って投げ銭をもらったり、原宿のホコ天でバンドやったり、まとまった休みがとれたらヒッチハイクで旅しながら投げ銭で稼いだり、自然生活している方のお宅に泊めてもらったり・・・ 

こういう経験が後に役に立つようになるとは。

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